kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

壊れた社会における光

 

 

昨年あたりから、街中で脚を引きずって歩いている人や、車いすで通勤している人をよく見かけるようになった。以前はあまり見ることがなかった光景だ。

 

新型コロナワクチンの接種が推奨されてから、私の街には葬儀屋が新しくでき、膝や腰の痛みに効くというサプリメントの押し売りをする電話などもひっきりなしにかかってくるようになり、脚が曲がり始めたという話も耳にするようになった。

 

新聞の集金に来る人も、旦那さんが急に腎炎になって入院したとか、ワクチン接種後にひどい腹膜炎にかかったなど、不可解な話をよくしてくる。

 

ワクチン接種が始まった頃はワクチンの危険性を憂う発言をすると、非科学的で頭のおかしい人のように思われて、人間関係にもひびが入ったが、ずっと疑問を抱いてきた。

 

先日「関東甲信有志医師の会」というワクチン接種後の後遺症を多数見てきて対策を練っている医師たちが開いたイベントがあったので、参加してきた。

 

一つの物事に対して多方面から疑問を持って考えるということは、大切なことだと思って生きてきたが、コロナ禍ほど思想統制を強いられた経験は人生の中でなかったと思う。

 

イベントではまず、ワクチン接種後に亡くなった遺族へのインタビューや、ワクチン接種に警鐘を鳴らしてきた政治家へのインタビューなどを織り交ぜた「真実を教えてください」という映画を上映した。明らかにワクチンを接種したことが原因で亡くなったと思われるのに、警察での検視解剖は2時間ほどで済んでしまい、細胞の提供を断られてそのまま火葬しなくてはならなかったなどの遺族の証言があった。

 

あの手この手でワクチン接種による健康被害を隠そうとしていることがうかがえるが、今日初めて、ワクチン接種をして具合が悪くなった人が訴訟を起こしたというニュースをツイッターで目にした。市に対して起こした訴訟で、「ワクチンの注射の仕方に問題があった」ということで市が慰謝料を支払ったらしい。ワクチン接種の際、敢えて逆血確認という血管に薬液が注入されないように確認する作業を省いているという内容で、看護師の方がツイートしているのを見かけたことがあるが、意図的にそうしていたのだろうか。

 

今回のワクチンに関して、製薬会社はいかなる場合も責任を負わないという契約が交わされ、国々が購入したワクチンもなるべく廃棄しないで人に接種して使い切るなどのおかしな取り決めがあるにも関わらず、不平等で公正さを欠く契約に関してはほとんど公表されなかった。

 

ワクチン接種をすると、神経受容体に炎症を起こし、リウマチやそれによる歩行障害、ブレインフォグ(脳が異常をきたして正常な判断ができなくなったり、ぼーっとしたりすること)を起こしたりするとの医師の説明がイベントではあった。

 

逆にワクチン接種によって免疫不全が起きるという説も今までかき消されてきている。

 

西洋医学のすべてを否定する必要はないかもしれないが、毒ともいえる危険な薬を使い、患者を騙して死に至る医療行為をしていることも事実である。

 

イベントの2部では医師二人による講演会を行い、新型コロナウィルスが人間に感染する仕組みや、感染経路、ワクチンの危険性の説明などを行っていた。

 

今のオミクロン株ではACE2受容体という血管内壁にある受容体への結合はみられないため、肺炎に至っていた流行1年目の株に比べたら、コロナウィルス自体の危険性は低くなっているといえるらしい。逆に言えば、新型コロナウィルスの流行は、最初の一年で終わっているという説がある。スペイン風邪のときも、本当のスペイン風邪の流行は一年程度で終わり、その後はアスピリンの投与によって亡くなる人が多かったという。

 

コロナウィルスの危険性は、スパイクたんぱく質によって引き起こされる血栓症が問題となるが、スパイクたんぱく質が体にとって毒になるのに、コロナワクチンでもスパイクたんぱく質が作られることになっている。これは、昨年の読売新聞にも書いてあったことだ。

 

最近の産経新聞の記事では、コロナワクチンを二回摂取した人の方が、未接種者の2倍、コロナ陽性になる確率が増えるという記事があったが、これはネット上に流すと記事や投稿そのものが削除されやすい。

 

また、PCR検査はもうすでに「インフルエンザと新型コロナの見分けがPCR検査でついていないため」にアメリカで廃止されたが、これはウィルスの死骸が多い口内や鼻の粘膜で検査を行い、対象となるウィルスを増幅させていき、コンピューターで解析するため、恣意的に陽性にも陰性にもできるあやふやな検査である。

 

ワクチン接種後に脳梗塞血栓症が起きて亡くなる例が多数報告され、ワクチンの副反応として血栓症が起きる可能性があることは製薬会社も厚労省も認めているにも関わらず、うちの近くのパン屋さんの男性は背中が曲がっても4回目のワクチンを受けるためにお店の営業時間を短くしますと張り紙をしている。ワクチン接種によって体調が悪くなることを前提にして接種を受けなくてはならないと脅迫的に考えていることになる。

 

私の同級生のお母さんは、もともと脳梗塞で体の自由が利かなかった旦那さんが去年亡くなり、自分自身も体のあちこちに腫れが出てきてそれが移動すると私の母親に訴えている。

 

ほとんどの人がワクチンを受けてしまったことを考えると、それらの病気がワクチンと全く因果関係がないとは言い切れないのではないだろうか。

 

最近では都内に出ると、駅のホームで困ったように車いすに乗ったままうろうろとしているサラリーマンを見かける。駅員も乗客も誰も助けてくれないので、電車に乗れないのだ。

 

新大久保の駅などでは、電車とホームの間が狭くなっている場所がありますと、車いすマークがついた案内がある。駅員は乗り降りを助けられないので、そこから自分でなんとかしてくださいと言われているようなものだ。

 

子供への接種が始まってから、子供でも脚が曲がって歩行困難を起こしている人を見かけるようにもなったが、ワクチンを接種してもコロナウィルスに感染するということが当たり前になっているようなのに、危険なワクチンを接種しなくてはならないなんておかしな話だと思う。ましてや、子供は自分でワクチン接種を受ける、受けないを決められる立場にはない。

 

体に針を刺す、薬品を注射するということはインフォームドコンセントがない限りやってはいけないことのはずだった。だが、すべての人がワクチンを打たなくてはいけないという風潮が出来上がり、ワクチン接種を拒否する人を陰謀論者や頭のおかしい異端者扱いしたあげくに自分たちが具合が悪くなっているのでは本末転倒のような気がする。それほどコロナウィルスを脅威として上手に煽ってきた経緯がそうさせたのかもしれない。

 

今はブースター接種を受ける人も減ったようだが、具合が悪くなっても受けなくてはいけない医療行為なんてないはずだと思う。

 

だが、ワクチン接種が就業・就学の条件とされていた以上、生活するために仕方なく接種を受けた人が非常に多かったのだと考えられる。

 

 

技術を妄信させれば、現実を知られないので、楽に人を操れる。

 

今度はサル痘や、インフルエンザなどが脅威として報道されているが、ワクチン接種後に発疹が出たり、免疫が弱ることはひた隠しにされたまま新たなワクチンを推進している。

 

コロナにおいては安全な治療法を全て禁止し、ワクチンやモルヌピラビル、レムデシビルといった有害な予防法や治療法だけを推進した。初期のころ、肺炎を起こした患者を早い段階でECMOにつないだ結果、亡くなった人が多かったことも後から指摘されている。

 

コロナ騒ぎで医療への信頼度と社会の前提が全く変わってしまい、真実が何かがわからないようにされてしまったことは、私たちがこれからいかにして人間性と善意を模索できるかを試されているかのようだ。

 

 

また、議論というものは私たちが一番有益で意味があることのように感じているものかもしれないが、自分の意見がいかに信憑性が高いかを説明するのは、たとえそれが嘘でも容易にできることをコロナ禍が証明してしまった。

 

医療のひっ迫と報道されていた時に、幽霊病床を作って、誰も患者がいないのに助成金目当てだけで満床と偽っていた病院が多数あった。その情報も、渦中においては嘘ともとれるような信憑性しか持ちえなかった。

 

気軽に風邪をひいたとも言えなくなった世の中では、真実は厄介者になってしまう。

 

真実を口にすれば、社会が見たがっている「嘘でできた夢」は崩れてしまうので、それはご法度なのだ。

 

誰もが自分が見たい世界だけを求めている中、具合が悪くなった人はどうやって生きていけば良いのか見当もつかなくて絶望するかもしれない。

 

今私にできることは、社会における真実の価値を守るために正直に発言することなのだろうかと思っている。

 

先が見えない中で、見聞きした事実に勝るものはない。史上最大の薬害が目に見え始めた今、私たちは正直に自分が見聞きした事実を語らなくてはいけない岐路に立たされているように思う。

 

感染症の脅威のもとには人権がある程度制約されても仕方がないという雰囲気が生まれ、多くの人が自主的に自らの権利を放棄する方向に向かった。社会との調和のために自分の健康を犠牲にした例が多いだけに、最近の周りの人々の不調や訃報には心が痛む。

他者の痛み

ウクライナ戦争の悲惨な状況を知ると、暗澹たる気持ちになるが、日本のリベラル層の中にはウクライナを憎む人がある一定数いるらしい。

 

ウクライナに行ってマイダン革命の様子を観てきた私としては、日本人を観るだけでニコニコしながら親切にしてくれたウクライナの人々を思い出して心が痛むのだが、何かあると結局差別する方向にしか気持ちを向けられない心理というものはどういうものなのだろうと思う。

 

大概、ウクライナはネオナチ政権でアメリカの手先だからロシアは致し方なく攻め入ったのだ、ウクライナが悪いと言う人達は、ウクライナにもロシアにも行った事がなく、想像力だけ働かせてものを言っているきらいがある。

 

もちろん、ウクライナやロシアに何度も脚を運んで双方の良い点も問題がある点も知った上で話す人もいるが、私が知るウクライナは2013年12月まではパリやマドリードブリュッセルよりも治安が良く、人が親切な場所だったし、親露派政権と言われたヤヌコビッチ政権は親露でもあり新米でもあり、どっちつかずの印象は受けていた。要するに、ウクライナウクライナとして自由にものを決める事ができず、自由がないから民衆は怒って政府と戦っていたというのが真実だったと思う。

 

内政干渉を受け続ける小国の立場というものは辛く、彼らは外国人の手を借りないと生きて来られなかった。ドンバスやクリミアで2014年に親露派住民に対してウクライナ政府からの弾圧があった事も事実だが、私はクリミアに住む親露派住民にキエフで知り合ったが、ウクライナ派住民に対して彼らは差別的な態度を取っていたのが気になったし、実際に親露派になる理由というのが民族浄化だったり生活のためだったりするので、日本人が複雑なウクライナ国内の人々の心理を簡単に語れないのではないかと思う面もあった。

 

元々、ウクライナとロシアは交流が深く、仲良くしてきた人達も大勢いるだろう。

 

今回、ジャーナリストの志葉 玲氏が親露派住民が多いハルキフで無差別殺戮があった事に触れ、ロシア軍が親露派住民への弾圧を理由にウクライナへの侵攻をしたと言いながら、結局ロシア語を話す住民を殺戮しているのはおかしいのではないだろうかと書いている。

 

FBで情報収集をしていくうちに、日本人が書いている二次情報や想像で書いた情報を観ていても仕方ない事に気付き、ウクライナ人とも繋がったのだが、彼らは時々、私に助けを求めて情報を送ってくる。

 

ブチャでの虐殺の情報を、ニュースよりも先に知らせてくれたのも彼らだ。

 

(残酷な写真が写っているので閲覧にはご注意下さい)

 

https://telegra.ph/Bucha-Іrpіn-Gostomel-04-03

 

彼らは言う。

「私たちは毎晩空襲を受ける。今まで生きてこられたのが奇跡的だ」

 

私が繋がれたのはウクライナ人のご夫婦なのだが、英語ができる奥さんの方が私の誕生日にお祝いのメッセージを送ってきてくれた。

 

戦場になってしまった故郷に生きて、比較的安全な国にいる私にお祝いのメッセージを送ってくれる気持ちというのは、どれだけ温かいものだろうとメッセージを受け取って感じた。

 

方や、日本では韓国や中国を一方的に憎む右翼よろしく、ウクライナ人を憎む人達がいて、差別と戦争というものは徹底的に醜い。けれども人と人とが国境も国籍も超えて繋がれた時には、マジックのように心に花が咲く。

 

日本で最初にロシア大使館前で反戦デモをしたのは、在日ロシア人の男性だったという。たった一人で警察からの妨害にめげず、戦争に反対した彼の勇気は、多くの人に希望を与えただろう。

 

結局のところ、人は他者の痛みを自分に引きつける能力というものを持ち合わせていなければ、安全な場所に胡座をかいて、命懸けで生活している人達や、取材している人達を偉そうに見下ろすようになる。

 

他者の痛みを自分に引きつけさせてお金を騙し取る詐欺の手口も多々あるが、それとこれとは別個のものではないだろうか。

 

人が生きる事には苦しみがつきまとうが、何故簡単に「情報を処理し、想像するだけ」の言説がまことしやかに語られて力を持ち、苦しめられている人々をさらに虐げるのか。

 

公平な目線が必要であるならば、自由に海外に行けない時代だからこそ、一次情報を手に入れる努力が大事なのではないか。

 

私は日頃、戦争に反対している人々が、簡単に被害者を更に叩く人間に変貌していく様を観て、しばらくの間かなり落ち込んでいた。

 

助けるという言い方は烏滸がましいにしても、暴力に対してそれを止める努力をするのは人として当然の事ではないかと思う。

 

コロナや原発危機などで大手メディアの流すニュースが信用できなくなった層に、今度はインターネット上で撹乱する情報を流したのはジョージ・ソロス氏の作戦だったのではという情報もある。

 

人が対立すればするほど武器を売る側は好都合だが、他者の痛みはストレートに受け止めてはいけないというのが現代のトレンドのようだ。

 

小さな蠢く砂鉄のような私たちに、大きな磁石で戦争の波を起こす者達。

 

悲しい事が沢山起きる世の中で、今必要な事は、自ら人と繋がっていく事ではないのか。

 

苦境に立たされている人々に、少しでも力になれる事がないかと考えるのが、狂った世界に対する薬になるように思う。

 

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人権と社会構造

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ショパンコンクールの話題が出てから、母がピアニストの牛田智大さんの演奏に惚れ込み、彼の演奏会に行きたがるので、一緒に牛田智大さんのピアノコンサートに行くようになった。

 


牛田さんの演奏と、聡明な思想は、彼がとてもまだ22歳とは思えないような早熟さがあるが、昨年末に静岡の浜松まで行った際、新幹線の駅からずっと怪しげな人達がついてきて困った経験がある。

 


私は統合失調症があるので、持病の妄想症状によってそのような怪しげで乱暴な人達に集団ストーキングされているのだと勘違いしているのだと最初は思おうとしたが、一緒にいる母も怖いと言う。

 


コンサート会場の中も、とても音楽に興味があるようには見えない怪しげな人々が沢山いて、コロナ禍なので開演前や休憩中に会話をするなというプラカードを掲げた係員が沢山いて、変な雰囲気だった。

 


それから数ヶ月経ち、今回は東京のサントリーホールで開かれた牛田智大さんの演奏会に行ったのだが、私の席の前が最前列なのに一つ空いていて、その左隣に女性が一人座っている。

 


その女性がやたらこちらを振り返って観たり、電波が繋がらないはずのスマートフォンで何かしていたりするので、怪しいなと思いながら観察していた。

 


サントリーホールはコロナ禍が始まってから、出演者にも厳しい規制をすると他のピアニストの方もFBで投稿していたのだが、今回は明らかに異様だった。会場の外に並んでいる時から、「特別警戒実施中」という看板を出してテロを警戒し、マスクにフェイスガードをつけた係員達が検温と消毒を客に促した後に、パンフレットの間にフェイスパックやらチラシやらを沢山挟んで渡してくる。あまりにも沢山挟んであるので、みんな挟んであるパックやチラシを床に落として拾う羽目になる。

 


消毒した後に床から落ちた物を拾うのでは手を消毒する意味もないし、フェイスパックをピアノコンサートで配るなんて聞いた事がない。

 


ロビーには「牛田智大さんにお花を贈ろう」という企画があり、これを個人の家のどこに置くのだろうというような大きな花の台があり、一口でどのような花がどのくらいつくのかという説明もないのに一口千円で、三口、五口と金額も上がっていく。そして、お客さん個人が牛田智大さんに花や贈り物をあげるのは禁止で、密を避けろと言いながら牛田さんが子供の頃の写真までついた切手シートやチロルチョコ、ハンドタオルなどのグッズ販売までしている。

 


最近、若い女性アイドルのグッズを買うと交流ができるという水商売のようなビジネススタイルが定着してしまい、それが若い男性スポーツ選手や音楽家にまで対象が及んでいるが、子供の頃の写真まで使ってグッズを作って売るというのはセクハラではないかとも思ってしまうし、第一、人が集中してしまうのが問題なら座席に人を入れる人数を制限したりすればいいのに、お金になる事だけは問題外のようで全ての席にお客さんを入れている。

 


そして客席にもお客さんを見張るような変な人が紛れ込み、係員も会場の写真を撮るなとか、会話をするなとか、やたら禁止事項ばかり出してきてお金を払って来ている人達を監視している。

 


驚いたのはパンフレットを撮影していただけの男性にも写真を撮るなと注意し、聴く時は座席に背中をつけて聴けと姿勢にまで言及してきた事である。

 


しかも、座席に背中をつけて聴けというのはプラカードではなく、口頭で言っている。人に喋るなというのであれば、マスクやフェイスガードをつけていても喋って注意することはおかしいのではないだろうか。

 


第一、注文の多い料理店のように、お金を払って来ているお客さんに対してそういう対応は大変失礼だと思うのだが、彼らの不躾な態度にはみんな怒っているようだった。

 


会話をするなと言われてもみんな従わないで喋り、コンサートが終わって退場する時もブロックごとに分けて退場させようとしていたが、さっさと席を立って「着席したままお待ちください」というプラカードを掲げて立つ係員に「どうも、お疲れ様です」と頭を下げながら堂々と先に帰っていく強者の老婦人もいた。

 


気になるのは、牛田智大さんが素晴らしい演奏をしているのに、例の前にいる女性は演奏中は寝ていて、全然ピアノに興味がないのに拍手の時だけ起きて頑張って拍手している事と、普通の携帯だとホール内では圏外になってしまうのに、スマートフォンで誰かと連絡したり検索したりしている事だ。今の技術ではトランシーバーのようなスマートフォンも作れるから、そういう特殊なものを使っているのだろうが、マナー違反という事で係員が注意しに来る事もない。

 


明らかにピアノのコンサートに着慣れていない人が、別の席から場違いな拍手をしてしまい、みんなから白い目で睨まれるという事もあった。

 


牛田智大さんの表情も深刻で暗く、デビュー10周年という事でスピーチをした際も、ウクライナでの戦争について悲劇だと言う発言があったが、早口で聞き取れない。

 


変だなあという気持ちを抱きながら、次の日少し東京を観てみたが、銀座も随分変わってしまって観るものがあまりない。前は無料で観られるギャラリーなどが沢山あったし、何も買わなくてもぶらついているだけで色々目にしたが、デパートにも路面店にもほとんど観られるものがなく、やはり怪しげな人がついてくる。前は男性が多かったのに、今は女性が多い。

 


みんなコロナ禍で仕事がなくて、水商売をするくらいなら公安の手先になった方がと思ってやっているのかもしれないが、意図的に貧困を作り出してきて色々な人を困窮させてきたのは国ではないのか。

 


憲法は完全に形骸化していると言われるが、個人の自由を奪うのも健康で文化的な生活を保障しないのも憲法違反であり、本来なら怪しい仕事をさせられている人達も安心して文化的な生活をできていなければおかしい。

 


私は、ずっと改憲をしようと言ってきた国が、意図的に貧困と格差を作り出してきて、戦争に加担しようとしている意図と、コロナ禍が起きた背景が結びついた気がした。

 


電車の中やコンサート会場で「感染を避けるため」に会話をさせないようにして人と人との繋がりや情報の共有を難しくさせ、戦争が始まればコロナ禍の報道を減らし、警察法を急に改正して表現や思想の自由も奪って弾圧しようとするのである。

 


東京にいると、怪しげな人が近づいてきて嫌がらせを受ける事も多いが、本来対立しなくても良い者同士を対立させて社会に混乱を招くのも犯罪である。

 


話は変わるが、私の親戚が骨折を機に入院していたが、コロナを理由に息子さんに面会させず、手紙も開封してチェックし、(真面目に仕事をしていたら忙しくて人の手紙を読む暇なんてないと思うが)親戚は夜中に看護師の手を払いのけた。そうしたら、病院側は「暴れた」と言い、急に30分も息子さんと面会させてくれた。親戚は、息子さんに「小さな声で話してくれ。死んで出て行った人もいるし、何されるかわからない」と言うらしい。

 


そこで私がそこの近くの市議会議員の友人に相談したところ、急に退院できる事になった。

 


病院も何も信用できたものではない。

 


急速に世の中が悪くなっていく中、今度は昨夜大きな地震が起きた。

 


久しぶりにテレビをつけてニュースを観ていたら、福島に津波が来るかもしれないと言う男性アナウンサーの声が震えて、泣いている。

 


福島第一原発事故の時も嘘をつき続けてきたテレビが、完璧に信用を無くした瞬間、彼は怖さに震えていたのである。

 


そのアナウンサーでは務まらないと局が判断したのか、今度はもっと冷静に話すアナウンサーに変わったのだが、「地面が割れているかもしれないので」と言うべきところを「じみんが」と言ってしまったり、「暗くて危険なので、声を掛け合いながら避難してください」と言っていたかと思うと、「人が集まる場所は危険なので行かないてください」と言いはじめる。

 


人が集まる場所では怒りを買って自分が怖いのだろうが、それはあんたの話だろ、という感じである。吉野源三郎の本ではないが、「君達はどう生きるか」と言う問題ではなかろうか。

 


今日も何食わぬ顔をしてテレビ報道をしているらしいが、福島はかなり揺れて大変らしい。

 


何故、あって当たり前の権利を奪われてしまわなくてはいけないのか。

 


人権が社会によって奪われた時に、人を救うのは人の心ではないのか。

 


私たちは破滅に向かっているように思われるが、優しい気持ちを持ち続ける事が罪のようにされる今、狂った世の中をどう観てどう生きていくかが問題のように思われる。

 


ちなみに、北海道に住んでいる母の友人の話によると、北海道でもミュージカルなどの会場で「会話をするな」などのプラカードを掲げて、異様な独裁国家のような雰囲気が3ヶ月前くらいからあると言う。

 


温厚な日本人が激怒している中、黙って従わないという反乱もあちこちで起きているようだ。

 


私は色々な混乱がAIによっても引き起こされていると思うが、人と人とが互いを尊重し合う幸せというものは、決して機械には理解できないものだと考えている。

 

 

 

愛と美の機械化


人にとって自然な環境とは何だろうか。砂抜きをするアサリを人工的に作った塩水に入れると、管を伸ばして必死に生きているが、彼らはしばらく経つと鍋に入れられてお吸い物にされてしまう。

 


人間はアサリを食べるが、アサリと同じ運命を辿っていると思う。

 


「愛と美を機械化する試み」という言葉をJoost Meerlooの「The Rape of The Mind」という本で見つけた。英語の本なので辞書を片手にしながら読んでいるが、それでもよく理解できていないと思う。だが、愛と美を機械化するという言葉には感銘を受けた。

 


私たちが生きている社会には愛と美のイメージが沢山あるが、いずれも私たちはその真髄を知ろうとせずに消費している。

 


愛と美というものは、つまらない平凡な日常の中から得る気づきの中にしか存在しないのに、みんなリッチで便利な生活をする事を望み、自分は他人よりも偉いのだという幻想を追いかける事に夢中になっている。

 


欲望が機械的に湧いてくるように仕組まれた世の中は、広告や報道という影響力のある媒体を使ってイメージを人々に提示し、それを次から次へと消費させる。

 


人を扇動するために恐怖と羨望を利用し、私たちが自分の頭でものを考える事を妨害しているのである。

 


昔、傷痍軍人の資料を展示している、東京の「しょうけい館」に行った時に、平和運動を続けて来た人の言葉を見た。

 


「眼を覚まし行動を始めると

 


不自由がつきまといます

 


大切なのは諦めない事です」

 

平和を願う素朴な気持ちは、困難によって潰れそうになるものなのだろう。

 

諦めないということが人生にならなければ、維持できないのが平和なのだろうか。

 


話は変わるが、志半ばに命をなくした人の遺作や、長年世に発表されてこなかった絵や文章などの作品を見たり読んだりすると、ついえた未完成の形というものが非常に物悲しく美しい余韻を心に遺す。

 


遺された者が未完成の部分を補うために想像すること、それは作者が生きた証に対する純粋な敬意を表すことなのだと思う。

 


私たちは底なしの欲望を社会から要求され、死ぬまでその欲望を満たすために搾取されている。

 


恋愛や結婚や出産、子育てなども、華麗な言葉と映像や写真と言ったイメージで煽られ、なんとなくある年齢になったら家庭を持たなくてはならないかのような圧力になり、それに人生を翻弄されて生きて、ありのままの自分を理解して受け入れてくれる居場所がそこになくても、みんな自分をある程度不自由に慣れさせる努力をしている。

 


完成されない形というものは、人間にとって苦しくとも不可欠なロマンのようである。

 


不完全さを労わり、愛するということは全ての生き物との関係において重要なものだが、面倒な事である。

 


面倒なことを全て簡単にし、楽をして幸せを手に入れようという発想がビジネスになり、受験や就職や恋愛や結婚や友人関係を「うまくやる」ためのノウハウとして社会に情報が出回っているが、私はそれこそが「愛と美を機械化する試み」であり、優しさを排除した残酷な世の中の元凶のように感じられるのである。

英雄の条件

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人間の本性は闇に近いものがあるのだと思うが、私たちは社会で生きていくために善良な面を鍛えて、それを表に出す努力をしている。

 


真実とは大衆の単位で考えると権力者にとって都合が悪いものかもしれない。だが、個人が見聞きした真実は、周りの人々にとって真実には見えず、社会との擦り合わせがうまくいかない場合には個人は自信を喪失してしまう。

 


人の言葉の重みとは何なのかよくわからないまま、私たちは強き者や強き媒体の発する言葉を信じ込まされているかもしれない。

 


年の瀬にあちこちで炊き出しが行われて、寒い中行き場も食べる物もない人々が列を作って食事を得ようとしていた。家がある者にとっての年越しと、家がない者にとっての年越しは天国と地獄ほどの差があるが、強き者の目には辛い想いをしながら列に並ぶ人の姿は何の感銘も起こさないのだろうか。

 


私たちは英雄を欲する性質があるが、テレビに出てくるセレブを英雄と考えるか、困っている人を放っておけずに手を差し伸べる人を英雄と考えるかは、その人の裁量に任される事になる。

 


だが、大概、真実を語る者は嫌われて排除されがちなのが世の中かもしれない。

 


歳を取ると周りに何を思われても自分のやりたいように生きる事を優先させられるかもしれないが、若いうちは社会に自分を合わせる事に精一杯で、理不尽な目に遭っている人を見かけたり、自分が理不尽な目に遭ったりしても黙って見過ごしたり我慢したりという社会への忖度をするかもしれない。

 


酷い搾取によって成り立っている経済も、格差によって成り立っている教育も、黙って見過ごして我慢する事で強き者たちは恩恵を受けているのである。

 


格差や階級が人を悪魔にしても、各々が心の目を養っていなければ悪魔も英雄とされるだろう。

 


そして悪魔の定義というものがどんな人の中にも数パーセントは当てはまるという事実も、私たちが考えないようにする事で忘れ去られていく。

 


英雄は悪魔にも天使にもなり得るという事は、周りの人達がその人を観て評価し、投影している「影」が、イメージとして一人歩きしている例えにもなり、私たちは自分の「影」を一番意識して生きている期間が長い。

 


人間の本質を知るという事は、影に光を当てて、その人が追い詰められた時に何を考え、どのような行動を取るかという事を知る事である。

 


英雄という概念が格差への憧れでもあると私はずっと思ってきたが、自分にとってかけがえのない恩人が英雄になるというのは納得のいく英雄像なのである。

 


英雄とは対等に愛を与えあい、信頼を築く事ができて初めて産まれるものであるが、どう考えても人を騙して搾取する権力者が英雄視されていれば、自ずと社会は悪くなっていくように思われる。

 


私たちに必要なのは具合が悪くてしゃがみ込む人の目の高さまで自分が背を低くするような「対等な愛の交換」であり、間違っても偉そうに踏ん反りかえっている人には周りの人と対等になる機会はないという事実が目の前に横たわっている。

 

 

 

 

孤独と愛の間に

一人でも自分が嫌だと思う事は反対できる人間を育てる事が、ドイツの教育の目指すところだと聞いた事がある。

 

実際にはドイツがどうなっているかわからないが、世界中で合理性を目指す「技術」と、それに対する「盲信」があり、人々は人間性を維持するために戦っているように思う。

 

だが実際、私たちは何と戦っているのかはっきりしない。一部の富裕層が世界を牛耳っている事に対する憤りだとか、企業がお金のために人々の良心を抜き取る事だとか、マスコミが真実を報道しない事だとか、色々な「敵」がいるように見えるのだが、実際のところ私たちが感じられる理不尽さというものは、具合が悪そうなのに誰も助けようとしない様子であったり、自分が食べるものを買えないという切実な苦しみなのだ。

 

漠然とした大きな敵に立ち向かうのはさながら風車に切り掛かるドン・キホーテのようだが、日常の中で繰り広げられる理不尽な悲しみに、私たちは無視と無関心でもって対峙している。

 

全ての人を助ける余裕がなかったり、社会的な制裁が怖くて何も発言できないという事はコロナ禍の前からずっとあったのだろうが、理不尽さに憤りを感じるほど孤独になっていくものだ。

 

孤独と愛の間にあるものは何だろうか。

 

私たちが愛と信じているものは、本当は虚構なのではないだろうか。

 

他愛もない食べ物の話や、可愛い動物の話、家族の話をしている間だけ、周りの人達は仲良くしてくれるが、深刻な社会問題の話になるとすっと人は離れていく。

 

難しい話には関わるエネルギーや余裕がないというのが本音かもしれないが、孤独になっても訴え続ける勇気は、意味のない事だというなら、今まで曲がりなりにも「戦後」を生きて「憲法」に守られてきた私たちの生活は、誰が築いてくれたのだろうと思う。

 

私は形骸的な論理を繰り返すだけの平和論であっても、人が笑顔でいられたならそれは意味のある事だったのだと考える。

 

孤立していく人々が生きる世界が、数年前まではもっと自由で暖かい雰囲気に包まれていた事を、誰もが懐かしんでいるだろう。

 

私たちがこれから生きていく時に、孤独と愛の間をより強く意識していくと思う。

 

助ける事が罪なのか、孤独になる事が罪なのか。

 

ただ生きるだけでこんなに苦しいという事実が、少しでも報われる日が来るのだろうか。

 

少しでも多くの人に笑顔が戻って欲しいと願う気持ちが、世の中を分断していくのを観るたびに、人間という考える生き物の難しさを思い知るものだ。

障がい者の性

最寄駅から家に帰るまでには、もう暗くなっていたので、久しぶりにバスに乗る事にした。田舎なのでバスの本数もあまり多くないが、ちょうど改札から出てきたら私の家の方向に行くバスが来ていたのだ。

 

私がバスに乗り込もうとした時、バスの運転手の男性が休憩するために降りてきた。その時バスに乗る客は私しかいなかった。

 

どの席に座ろうか迷っていたところ、後ろからバスの運転手さんが怒ったように怒鳴る声がした。振り返ると、知的障がいがあるらしい40代くらいの男性客に対して怒っている。

 

何故バスの運転手さんが彼に対して怒っているのか最初はよくわからなかったが、話を聴いていたら、どうも知的障がいがある男性が、私をターゲットにして痴漢行為を働こうとしていたらしい。他の女性も狙って痴漢行為を繰り返しているのか、運転手さんには顔も職場も割れているようだ。

 

バスの運転手さんは、私を庇ってくれ、「この方お客さんだから!あんまりこういう事やるなら、貴方の会社の社長さんに本当に言うよ?」と詰め寄っている。男性は怖くなったのか、バスに乗るのも私に手を出すのも辞めてその場を去って行った。

 

夜道を歩くのが危険だからバスに乗ろうとしたのだが、逆に痴漢常習犯に狙われる事になったのは意外だったが、同時に知的障がいがあるという事だけで恋愛のチャンスが殆どなく、結局見ず知らずの女性に性犯罪を犯すところまで追いやられていく彼らの境遇が気になった。(障がい者だから性的欲求が抑えられないと言いたい訳ではなく、私は障がい者として生き障がい者と接する中で、性的な欲求の対象になる経験が比較的多いという意味あいでこの記事を書いている。)

 

私も精神障がい者だが、薬を飲んでいればある程度普通に見えるためなのか、障がいを理由にして恋愛で不利益を被った事はあまりないかもしれない。だが、一度精神病院に入院したら、男女共同利用の病棟なのに性犯罪を防ぐための指導は一切なく、避妊具なども配られず、代わりに異性との接触は厳しく見張られた。セクハラも沢山受けたが、特に女性にとって危険な環境なのに、具体的に身を守る方法は何もないまま集団生活を強いられたのはとても理不尽だった。病院は、性的逸脱を防ぐ為に禁欲を強いる割には、全然合理的ではない対応をしていたのだ。

 

精神病院や障がい者施設では、恋愛が御法度なのだが、同時に保護を受ける障がい者は禁欲を強要されて人権を奪われるのが当たり前になっている。

 

私が自分の障がいを意識したのは20代半ば過ぎに幻覚によって錯乱してからだが、その前までは単に性格が難しくて不登校になっただけなのだと思い込んで生きてきていた。周りの人に迷惑をかけてきたが、知的障がいと精神障がいの差別される度合いは異なるかもしれない、と今回は強く思った。

 

近くに古本屋があるのでたまに行くのだが、ポルノのDVDを沢山レジに持ってきて、(自分がいくら持っているのか分からないのだろうが)290円ほどの金額でDVDを全て買えないかと店員に訊いて、この金額では買えないと言われると今度はカバンの中から女性のヌード写真集を出してきて、この本を売ったお金でDVDが買えないだろうかと大声で訊いている、知的障がいのある男性もいてびっくりした事もある。

 

結局のところ女性は性的に搾取されるべき性という認識は、殆ど社会の隅々まで根付いているのかもしれないと感じて怖くなったものだ。

 

人間の一番根本的な欲求として、性欲や支配欲や食欲があるのかもしれないが、他者を巻き込むまでに欲求を拗らせていく背景には、強い者だけに権利を与えて、弱い者は何をされても黙っていろという暗黙の支配構造が絡んでいるのではないだろうか。

 

人は自分よりも弱い立場の人を見つけて安心しようとする。大概、子供は無意識のうちに母親を下に見ようとして、甘えながら全てを許してくれる事を望み、彼女が例えば専業主婦になった事を馬鹿にしてみたり、または家庭をある程度放置して働いていた事を恨んでみたり、ありとあらゆる手を尽くして母親というコンプレックスを打倒しようとする時期がある。

 

父親に対するそれは生涯の恨みや呆れに繋がる場合も多いのだが、無意識のうちに一番近い人物に対して闘志を燃やすのは自然な欲求のように認識されているかもしれない。

 

そして、未だに特に女性は結婚して子供を持つべきだと思われている。

 

社会に性を管理されている事に声を上げるようになってからかなりの歴史があるのに、人間はポルノによって儲ける事や人を一時的に満足させて支配する事を辞めようとはしない。家庭を持つも持たないも自由なはずなのに、家庭という単位に人を押し込めようと働く。そこに権利や自由はあるのだろうか。

 

だが、見た目や振る舞いが「健常者」に見える事だけを基準に、性的欲求を持って良いかどうかを判断して差別している事実は、それこそ容姿や若さや権力を優先させる社会にとってコンプレックスなのである。

 

生涯独身の人や性的欲求を持たない人も徐々に声をあげて、自分の生き方を否定しないよう頑張る時代になってきたが、それと同時に社会に蔓延して黙殺されている障がい者への性差別と性犯罪は、これからもっと公に語られるべき問題なのではないか、と私は思っている。

 

だんだん年齢が高くなるにつれて、性犯罪の被害に遭いそうになっても毅然と睨みつけられるだけの度胸は身についてきたかもしれないが、自分が割と大人しそうに見えるというだけで男性から痴漢行為のターゲットにされるのは許し難い事でもある。

 

だが、相手を軽蔑して憎むだけでは問題の真理に辿りつけないという事が、今回学んだ事実だった。